野鳥に愛された中西悟堂を知ってますか

 

日本野鳥の会というと、紅白歌合戦の時に客席の票を集計する場面を思い出す人も多いのではないでしょうか? その日本野鳥の会を設立した人物が中西悟堂です。

【中西悟堂という人物の生い立ち】

動画:郷土資料室企画展示「中西悟堂と西多摩」 (展示は終了しました)


1895年(明治28年)に石川県金沢市で生まれました。

父は海軍軍楽隊教官でしたが、 悟堂の生後まもなくして死に、母は実家に帰った際、行方不明(離縁らしい)になり、父の兄弟、悟玄に養子として迎えられます。

大学に進学した後、1911年(明治44年)に天台宗深大寺にて僧籍につきました。

【日本野鳥の会】


中西悟堂は、日本野鳥の会創設者です。「野の鳥は野に」を標語とし、自然の環境において、鳥を愛し、保護する運動を起こした人物です。

そもそも、「野鳥」という言葉自体が悟堂の造語なのだそうです。それほどにも、関わりが深い人物なのですね。

それまでは、日本人の野鳥とのかかわり方は、捕まえてきてかごの中で鳴き声や姿を楽しむ、または捕獲して食用にするかのどちらかでした。

創立は1934年(昭和9年)の6月、富士山裾野の須走で、後に「探鳥会」と呼ばれるようになる、第一回目の野鳥の観察会が開かれました。

その時は文化人や貴族に限られていたそうですが、精力的な活動をおこない、日本各地に支部が作られ会員は増えていきました。今では日本全国で4万人を超える会になっています。

戦争中は休止状態にあった日本野鳥の会も1947年(昭和22年)に再開され、無差別、無制限に狩猟できてしまう、カスミ網禁止の法制化、サンクチュアリー(野生鳥獣の生息地の保全と、訪れた人が自然を体験する場)の設置などをはじめとした、自然保護や野鳥保護活動に勢力をつくします。

そして、鳥獣保護法の制定にも貢献しました。野鳥や自然に対する思想は中西悟堂が僧侶であったということも関係しているようです。

【文学にも精通】



野鳥に関する研究や保護だけではなく、様々な才能を発揮している人物でもあります。それを示すように軽井沢には直筆の詩碑とその隣には肩に小鳥の止まっている胸像もあるそうです。軽井沢に訪れることがあったら拝見してみたいものですね。

ちなみに、筆名としては赤吉(しゃくきち)。悟堂は法名、お坊さんになる時につけれれる名前で、本名は富嗣。その多彩さを表すようにいくつもの名前を持っていました。

大学の頃から短歌をたしなみ、のちには詩の世界にも手を伸ばしました。最終的には本格作家を目指し、現在の東京都世田谷区烏山で自然の中で質素な生活を営み昆虫や野鳥の観察をはじめたそうです。

さらに3年ほど後には、杉並区井荻町の善福寺風致地区に移転します。野鳥を観察して日本中をめぐり、自宅では野鳥を放し飼いにして注目を集めたそうです。家にいるときも鳥に囲まれた生活がしたかったのでしょうね。

「愛鳥自伝」を始め、野鳥、昆虫、短歌、詩集と多岐に渡る著作を残しています。

今では日本野鳥の会の活動は多岐に渡っています。会員になって、日本の自然と動植物について造詣を深めてみるのもいいかもしれませんね。

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