NHK「英雄たちの選択」で知った 裏切り者、城造りの名人 藤堂高虎 Ⅱ

 

さて、Ⅰの方では10代の時は何でしたが、21歳でいい上司に出会い、才能も見出され、順風満帆だった高虎でしたが、苦悩が始まります。

その苦悩とは?

民の苦しみを見て


太閤検地。
教科書で必ず習いますね。ただ土地を正しく測ったのかなと軽く考えていましたが、その地にいないとわからない細かな配慮がなく、一度年貢を決めたらそのままという事になりました。

一揆がたくさん起こりましたが、秀吉は反抗する者は村ごとなで斬りにしろと命じました。

その尖兵に抜擢されたのが高虎です。彼はまず城を造ります。石垣で周りを囲み、攻め込んでくる敵を上から攻撃する城、赤木城。そして、抵抗する民衆500人あまりを殺害しました。

秀長が死に、秀吉に仕える事になり、彼は伊予板島7万石の大名に抜擢されます。高虎40歳。

いざ行ってみると、その地はすさみきっていました。前の領主が厳しかったのです。

真冬でも年貢を取り立てに来ました。年貢を納められない者に対しては妻子を水につけたり、お湯をかけたり、簀巻にして水に放りこんだりと、罰にしてもそれはないだろうという行い。

もちろん一揆が起こっていましたが、800人あまりが捕らえられて、街道にその貼り付けが並べられました。2000人あまりの百姓が殺されていました。

高虎は決まりでは年貢を取り立てるべきなのですが、荒れ地を開墾したら1年年貢を納めなくても良いことにし、地域復興を図りました。民の心を掴むため、三嶋神社を始め、多くの神社を私財を投じで復興させました。

昔の荒い気性からは考えられない温情ぶりですが、いろいろ調べると、お金が無かった時に、食べさせてくれた団子屋に恩返ししていたりと、情が深い話も結構ある人なのです。

裏切り



秀吉が死に、政治闘争が始まりました。

家康は大名間の婚姻禁止という決まりを無視し、勢力拡大のため、婚姻を実施していきます。

高虎から見たら、家康は領地を上手に運営し、その土地に見合った運営を大名にさせるべきだと考える、秀長と同じ考えの持ち主。三成は、中央絶対の考え。

そして高虎に運命の情報が入っってきます。家康暗殺。当時病気で寝込んでいた前田利家を家康が見舞いに行く途上で殺すというもの。

高虎は豊臣側。しかし、高虎、秀長の考えに近いのは家康の方。

で、実際、彼はどう行動したか。

家康は大阪に家が無く、船で利家の家に近い所まで行き、そこから籠で見舞いに行くつもりでしたが、そこで待っていたのは籠に高虎

高虎は暗殺計画を話し、自分が家康の籠に乗るので、家康は高虎が用意した籠に乗って行ってくださいと言いました。

高虎の乗った籠は厳重に警備しながら行き、時間を置いて家康は行き、無事に着きます。その後も高虎は家康を匿い、警備を厳重にしました。

これで高虎は秀吉側から家康側につく事が決まりました。

確かに裏切りですが…、さて、みなさんはどう考えますか?

関ヶ原後



関ヶ原の戦いの後に高虎が造った城は門から城まで行きやすい城だったそうです。平和の世には行き来しやすい城がいいと考えたのです。天守閣も簡素化し、お金がかからないようにしました。

そして彼の城の図にあったのが城下町。城下町からは税を取らず、町を発展させました。

各地に城を造りましたが、城下町も必ずセットに入っていました。

晩年、息子に残した心得には、領国は将軍からの預かり物であって私有地ではないから、油断せず大事に扱わねばならないと書いていたそうです。

かなり裏切り者としての悪評が高かったみたいですが、裏切りと言っても、豊臣、徳川、どちらが勝つかわからない時点での、主の鞍替えですし、他のネットの記事を読んでも、文化人だったとか、良いことをかなり言っていて、尊敬の念が深まるばかり。

若い時は何でしたが、このような人がいたのかと、私は知って得した気分になりました。



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